アルコール依存症の呟き

アルコール依存症です。

精神病院への入院〜閉鎖病棟2〜

病院へ到着したところまでは記憶にあります。

あと様々な検査(躰中倒れたりした瘢痕が無数にあり、腕や足はぱんぱんに腫れ上がっていました)をしたこと。

CTやレントゲンや血液検査など。

入院にあたり医師等とした筈であるお話しは、殆ど記憶に有りません。

ただ断片的に「3ヶ月ほどの入院」だとか「飲酒量やら摂取薬物はどうなっているのか?」「ここは閉鎖病棟で」などという会話は覚えています。

 

 半分意識朦朧とちょろちょろ動き回るわたしはなすがままに身包み剥がされ(ブラジャーまで。首吊るといけないから)、病衣に着替えさせられて個室に閉じ込められました。

 このままではどうにもならない、入院した方が、なんて少しまともな意識がある時は考えたりしたものでしたが、保護され入れられた「閉鎖病棟」なる環境に愕然としたのです。

まともに思考出来る状態で無いにも関わらず。

 

 そこは。

机とベッドしかない狭いビジネスホテルのような作りのお部屋でした。

お風呂はなく、トイレのついた個室でした。

窓は10センチほどしか空かず、ただただ眠るためのお部屋という感じでした。

 入れられたお部屋で看護士さんに、

「今不安ですか?」

「怒りを誰かにぶつけたくなりますか?」

「死にたいですか?」

なんていう質問を矢継ぎ早にされ。

わたしは、

「ものすごく不安です」

「イライラしています」

「どちらかというと死んでも構わないという感じです」

なんて答えていました。

「今日は何月何日何曜日ですか?」

の質問をされた時に、ハッとしました。

これは単なる質問では無く異常性を確認するための質問だったのでは?と。

 

 五年前わたしは食道がんになりました。

ステージⅢのリンパ転移のある状態での発見。

今回の鬱は病の告知から静かに始まったものでした。だって五年生存率は三十%に満たないなんてネットに出ていたから。

手術の予後が悪く家に閉じ籠り独りお酒を呷る日々が始まりました。

コロナが孤立を更に助長しました。

仕事もせず預貯金を切り崩し一日中ただ独り閉じ籠る生活。

外出するのは毎日犬の散歩とついでに寄るスーパー(主にお酒を買いに)、月一度の精神科と耳鼻科と美容室、あとは週三回で通った接骨院

くらい。

日付を気にしたことは殆ど無く、曜日で「今日は○○」と日常を過ごしていました。

だから、

「今日は何月何日何曜日ですか?」

の質問に激しく狼狽えました。え?精神科の日だから月曜日のはず・・・何月何日?三月になったのはわかるけれど今日は何日なのか?

逡巡しながらも恐る恐る、

「三月四日、月曜日です」

と消えいるような声で呟きました。

たまたま当たったようで看護士さんはそのまま問診票を持って退室しました。

その後、「今日は三月四日の月曜日」と何度も自分に言い聞かせました。

 その日は疲れていたし物凄く不味そうであった食事には手もつけず、処方された眠剤で二週間振りに深く眠りにつけました。

翌朝はラジオ体操の音楽で目が覚めました。どうやら他の患者さんたちは部屋の外へ出られるような気配。

 わたしはというと、監視カメラのついた部屋で隔離されていました。

薄ぼんやりと今何時なんだろう?と見回すも時計が無い!ということに漸く気が付きました。

机とベッドだけの部屋。

時間すら分からないなんて!と、発狂しそうになったのを思い出します。

ラジオ体操が終わると朝食が運ばれて来ます。そして昼食、夕食と。

食事以外の時間は閉じ込められた部屋で何もすることがありません。勿論携帯も没収されていますから。

そもそも躰に残る薬のせいでソワソワし、じっとして居られないのです。

眠れたら、横になれたらどんなに楽だろうと何百回も考えました。

結局は狭い病室のなかをうろうろと。檻の中の熊のようにひたすら歩き回ることしか出来ませんでした。合間一日二回決まって、

「今不安ですか?」

「怒りを誰かにぶつけたくなりますか?」

「死にたいですか?」

そして、

「今日は何月何日何曜日ですか?」

との質問。

日付と曜日を忘れてはならない、と本能的に考え「今日は三月五日火曜日」と呟きながら何時間もお部屋のなかをぐるぐると歩き続け、時折座るもじっとしていられずまた歩き日付と曜日を反芻する、の繰り返しが数日続きました。

 時計が無くて困ったことが翌日から起こりました。

夜二十時半、看護士さんが眠剤を持って現れます。そのまま眠りにつこうにも眠れません。

ソワソワするしわたしはマイスリー(短時間型の依存度の強い眠剤)をお酒で過剰摂取(違法ですがとある薬剤師さんから横流しして貰っていました)していたため、処方の眠剤では効果が出なかったのです。

ナースコールで追加眠剤(頓服で夜間2回まで)をお願いするも、二十二時過ぎ無いと追加眠剤は出せないとのこと。

時計が無い!

 どの位時間が経過しているのかが分かりません。

ソワソワは止まらないし眠剤は効かないし追加眠剤は一定時間が経過しないと貰えないというのに、時間が分からない!

発狂しかけて入院しているというのに追い討ちかけて頭がおかしくなりそうでした。

閉じ込められた白い部屋、机と椅子、ベッドとトイレ、僅かな空間。

 一日中ウロウロして過ごしました。

だってやる事が無いのです。

戦中ロシア兵であった拷問を思い出しました。

穴を掘らせてまたその穴を埋めさせる、という意味の無い行為の繰り返し。

理由付の無い行為の繰り返しは発狂するそうです。

部屋のなかをウロウロするだけのわたしはソレを思い出しながら且つ更に気がおかしくなりそうになりながら、過ごすしか無いのでした。

 

 

 

精神病院への入院〜閉鎖病棟1〜

 今年に入ってから急激に持病の加速が実感されました。

数回繰り返し、今回5年目を迎えた鬱病

今までは薬の力で何とかなっていたのですがある日突然、空気の抜けた風船のように、驚くほどの勢いで自分のなかの「何か」が萎びていくような、奇妙な感覚に囚われました。

好きだったお笑い番組を見ても笑えないし、大事な愛犬の存在すら鬱陶しく、仄暗い感情が手指足指までをも支配し、感情の起伏がおかしな事になり始めたのです。

 月一度わたしは精神科に通っていました。勿論鬱病の治療で。

そこで医師に、

鬱病、悪化して来た気がします」

と、伝えると、その医師は注意深く診察するでも無く、服用していた向精神薬をより強いものに変えました。

 

 医師は月に一度症状を聞き薬を変える、の繰り返し。

わたしの症状は驚くほどのスピードで悪化し、焦った医師は通院の間隔をひと月からニ週間に一度に変更し更に、薬を変え続けました。

その頃医師から精神病院への任意入院を勧められたのではありますが、今まで鬱病を何回も寛解してきたわたしは大袈裟な気がしたし、薬で何とかなるもんだと思っていました。

 二週間に一度の通院はいつしか週に一度になり、薬もその度にどんどんと変わっていきました。

ある薬に変わり二日ほど経過した時、いきなりガタガタと躰が震えるようになったのです。

五日経過するのを指折り数えて待ちました。時折痙攣のように遠退く意識と震えを堪えながら。

 その頃にはもうどうにもこうにも制御不能な状態になっていました。

一日中支配する眠気、けれども眠れずに繰り返し支配する震え、じっとしていられず歩き続け、眠気に耐え切れず横になるも・・・の繰り返し。

 わたしはいつしか倒れるようになっていきました。

支配する震えや不安感焦燥感絶望感を払拭すべく、向精神薬を飲み、酒を呷り。

お水で薬を飲んではいたものの、合間に呷るアルコールは薬の血中濃度を出鱈目に高めて。

毎日のようにブラックアウトし倒れ、躰中は傷で血塗れになるやら痣だらけという状態で、もうこのままでは死んでしまう、と、ある夜救急車で運ばれながら母を呼んだのです。

深夜に駆け付けた母に縋り泣き喚き暴れて。

満更ともせぬ朝を迎え、11時半予約のメンタルクリニックの開始時間前より鬼電し、予約を繰り上げて貰いました。

 深夜に召喚した母はわたしを抱えるようにして(わたしの方が15センチも大きいし体重も20キロも多い)クリニックに付添ってくれました。

 わたしの様子を見るや否や医師は、

「即入院なさって下さい下さい」

と、言い放ちました。

何を云っているんだ?コイツは、、、とじっとしてられないわたしは、ものすごいスピードで診察室内をうろちょろと歩き回りながら考えていました。

「今すぐ行けますか?元働いていた精神病院になら、即手配出来ます」

とも。

もうまともに座ることもできず歩き回り倒れ、話しを半分理解出来ずひたすらうろちょろするわたしを見、母は医療保護入院を決断しました。

そうしてわたしは何の入院の支度をすることも出来ぬまま・・・とはいえ何よりも大事な愛犬の世話(膵炎にて特殊フードや薬が必要)の説明だけを入院準備とする状態でタクシーに詰め込まれ、I橋区にある精神科急性期の閉鎖病棟へ運ばれたのです。